大山康晴の凄さと羽生善治・藤井聡太との共通点

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大山康晴の凄さと羽生善治・藤井聡太との共通点

今回の記事でお伝えしたいこと

昭和の大名人大山康晴先生の足跡について

大山康晴先生と羽生善治先生・藤井聡太先生への系譜について

大山康晴先生のエピソード

大山康晴先生と言えば、将棋界におけるレジェンド棋士の一人で

数々の記録を作られた先生の一人です。

既に鬼籍に入られ、将棋ファン以外ではなかなか名前を知られることもない存在でしたが

羽生善治先生藤井聡太先生と言った、いわゆる記録メーカーの棋士が記録を打ち立てる際に

何かと比較される場面が多いように思います。

ダン

記録をあて擦られるって本来はあまり愉快ではないんだけど…でも前任者と言う意味で、限られた人しか味わえない体験だよね。

今回はそんな大山康晴先生についてご紹介致します。

今回もどうぞ最後までごゆっくりとお読みくださいませ。

目次

大山康晴の凄さと羽生善治 藤井聡太 

大山康晴の凄さ タイトル獲得数について

大山康晴先生はタイトル獲得期数が80期で、羽生善治先生の99期に次いで

歴代二位となっています。

ダン

将棋タイトルの序列記事でも書きましたが、九段戦・十段戦は竜王戦の前身なので色を変えております。

そして考慮に入れないといけないのは

大山先生が全盛期だった時のそもそものタイトル数です。

王座戦は1983年、棋王は1975年にタイトル戦となっていますから

大山先生が全盛期だった頃のタイトル数は十段戦を含めても5つしかなかったんですよね。

一方で羽生善治先生の全盛期はタイトルの数が7つ。

勿論タイトル数が増えたから期数が増えて当たり前、とは一概に言えませんが

母数が少ない中で積み上げた80期、これも相当に凄いことが伺えますね。

ダン

ちなみに王座戦がタイトル戦に格上げされる前、一般棋戦の時には9回の優勝経験があるんだよ。それを含めずにこのタイトル数。凄いですよね。

更に一般棋戦でも合計44回の優勝経験があり、大名人の名に恥じない実績を残されているのがわかります。

羽生善治・藤井聡太との共通点

将棋界の第一人者としての地位を固めつつある藤井聡太先生、

そして藤井聡太先生にバトンを渡すまで長らく将棋界の第一人者となっていた羽生善治先生

そして大山康晴先生と3名とも名人経験者であるのが大きな共通点なのですが

中学生棋士、という項目で3名を括ろうとするとそれが当てはまらず

大山康晴先生は18歳にてプロ入り(※当時の昇段規定に基づく)となっている為

いわゆる若い頃から天才棋士の系譜の下キャリアを積んだ訳ではないことがわかります。

ダン

中学生棋士は大山先生でも、中原先生でもなく加藤一二三先生が始まりなんですよね。

共通点はお三方とも一時代を築いた方ということで、その一時代の長さで言えば

タイトル99期獲得した羽生善治先生よりも、大山康晴先生を挙げるファンの方も見えられます。

永世棋聖である故・米長邦雄先生も最強の棋士として羽生善治先生ではなく大山康晴先生の名を挙げていますね。

また、将棋以外のゲームも非常に好んでいたとされ麻雀や囲碁、中国将棋もやっていたようです。

羽生善治先生同様チェスにも造詣が深く、日本チャンピオンになった程の腕前。

ゲームに関する才能はやはり別格だったのでしょうね。

大山康晴先生の主な記録

タイトル数に続き、大山康晴先生の現在も残る主な記録についてです。

※歴代一位記録のみ抜粋

タイトル戦連続獲得 19期

タイトル戦連続出場 50回

名人在位 18期

名人連続在位 13期

タイトル最年長奪取 56歳11か月

タイトル最年長防衛 59歳0か月

タイトル最年長失冠 59歳11か月

タイトル最年長挑戦 66歳11か月

名人最年長挑戦 63歳2か月

順位戦A級在籍 連続44期

最年長A級 69歳4か月(在籍のまま死去)

どれもまぁ圧巻の一言なんですが

特に50歳を越えてなおトップレベルの棋力を維持し60歳を越えてからのタイトル挑戦、A級在位なんてのは

とんでもなく難しい記録であることがご理解頂けるかと思います。

ダン

羽生善治先生でもA級在位記録29期だよ!?その1.5倍…そして60歳越えてのタイトル挑戦は、谷川浩司先生が今タイトル戦で藤井聡太先生に挑戦するようなもの…とんでもない記録だよね…

一般的に棋力などを含めた全盛期は20代後半~30代後半にかけてと言われることが多い中で

棋力を落とすどころか維持し続ける、それがどれだけ凄いことなのか、大山康晴先生が実績を以て雄弁に語ってくださっているのがわかりますね。

大山康晴の歩み 升田幸三との邂逅

生まれ~プロになるまで

大山康晴先生は1923年に現在の岡山県の倉敷市で生まれます。

5歳の頃に将棋を覚え、同じ岡山県出身で大阪に住む木見金次郎先生の内弟子となり、大阪へ引っ越します。

そして創設されたばかりの関西奨励会に入会し、腕を磨いていきます。

1940年に4段に昇段し、1942年には現在の毎日新聞の嘱託棋士として手当を貰いながら将棋を指します

折しも太平洋戦争真っただ中、1944年に大山康晴先生にも召集がかかり地元岡山の部隊に歩兵として入隊。

多くの同僚が沖縄戦線に投入され、戦死していく中で

大山康晴先生は将棋と言う特殊な技能を持つ歩兵ということで、上官判断で岡山に残ることとなったのでした。

そして1945年、今度は本土決戦に備え再び部隊編成がされますが

今度は参謀長の囲碁相手ということで当番兵となり、出兵を免れるのでした。

ダン

ちなみに大山康晴先生は囲碁も嗜まれたようで、アマチュア五段程の腕前だったようだよ。芸は身を助ける、まさに大山康晴先生の為にあるような言葉だね。

終戦~兄弟子升田幸三との因縁

そして終戦を迎え、創設された順位戦から棋士として活動の場に戻ります。

1947年、兄弟子でもある升田幸三先生との高野山の決戦を経て塚田名人に挑戦したのを皮切りに

その後も升田幸三先生との因縁は続きます。

1952年、木村義雄先生から名人位を奪取したものの

1955年には52年に升田幸三先生に王将位を奪われてしまいます。

更に当時は指し込み制(簡単に言うとハンデ戦)が採用されており、

タイトル戦の勝敗がついた場合でもハンデ戦で最終局まで指すというルールとなっていました。

ここで大山先生は、升田先生に香車を引いた状態での対局でも破れてしまい、升田先生の名言である

名人に香車を引いて勝つ

の実現を許してしまうことになったのでした。

更に1956年には名人位も升田幸三先生に奪われてしまいました。

この頃の因縁は凄まじいもので、先述した通り

大山康晴先生は毎日新聞の嘱託棋士であり、升田幸三先生は朝日新聞の嘱託棋士でもありました。

当時の毎日新聞は王将戦、朝日新聞は名人戦の主催ということもあり

それぞれのタイトル戦で嘱託棋士が勝つと、何度も投了する場面をカメラに収めさせて宴会をしたり

反対に相手側の棋士が勝つと、スタッフ総出で帰るなど

いわゆる嘱託棋士に過度に肩入れをするよう盤外戦も凄まじいものがあったようです。

ダン

特に香車を引いて升田先生に負けた時は、ハラワタがちぎれるほど悔しかったと語られているよ。それが原動力になってか、その翌年は全てのタイトルを升田先生から奪い返し、一度も渡してないんだ。

大山康晴先生が将棋連盟の会長になられた際も、連盟に電話をする際に

必ず大山康晴先生に悪態をついてから本題に入ったという升田幸三先生。

兄弟弟子という間柄、ライバル新聞社の嘱託棋士という因縁もあったのでしょうが

部分的には反目しながらも、お互いを何処かで認め合っていたような様子が様々な文献には残されています。

どちらも偉大な棋士ですから、やはり認め合っていた部分があったのでしょうね。

大山康晴の棋風 エピソードなど

重厚な受けが特徴の大山将棋

大山将棋の神髄としては、やはり重厚な受けなくして語れないでしょう。

守りの金を巧みに使い、相手に攻めさせても決定打を与えず、局面を複雑にする。

終盤、最善手ではないものの複雑な手を幾つも指し、相手を幻惑させてペースを握る。

柳のようにスルリ、スルリと相手の手をいなし、最後自分のペースに持ち込む。

名人になるには特筆した指し手が必要と言われていますが、大山康晴先生は重厚な受けが特徴だったようです。

現代では少数派の振り飛車党

歴代名人を見ても、基本的には居飛車党が多く

アマチュアには人気の振り飛車も、プロになればなるほど少数派となっている現代。

そんな中、大山康晴先生は振り飛車のまさに大御所と呼ぶべき存在で

四間飛車やツノ銀中飛車等をよく採用し、指されていました。

また、大山康晴先生の棋譜を研究した藤井猛先生が、他の指し手等の着想と合わせ藤井システムを生み出したのは

非常に有名な話ですね。

その代わり相手が飛車を振った場合は、必ず居飛車として指していた大山康晴先生。

現代でも相手が振った場合は居飛車で指す先生はいらっしゃいますが、大山康晴先生もそのタイプだったようです。

ダン

藤井聡太先生の師匠である杉本昌隆先生もそうだよね。

相手の戦意を削ぐ差し回し

棋士として、博打のような指し方ではなく

優勢な状況を作り、優勢な状況から確実な勝ちに繋げることに苦心していたと語られた大山先生。

その言葉通り、有利な局面になると更にリードを拡げ、相手の戦力と戦意を喪失させようと

部分的に駒取り坊主になり相手の駒を回収して指し手をなくす、

形作りで指してきた相手に対し、更に長引かせる手を指すなど

非情とも言える程勝負に徹するのも特徴と言えそうです。

ダン

その対局の勝ち負けだけでなく、その後の対局でも苦手意識を植え付けるように徹底的にやっていたようですね。心憎い心理戦です。

得意の盤外戦 効かなかった相手も…

今でいう所のパワハラに近い行為で、良くも悪くも昭和の名残である感じがしますが

棋王戦優勝者の内藤國雄先生に「タイトル戦は次回から」などの半分虐めのようなものを皮切りに

棋王挑戦者決定戦で田丸昇先生を一方的に破ったあと

タイトル戦の日程について関係者と話をしだすなど

今で言う煽り行為を徹底してやっていた様子が伺えます。

ダン

勝負は盤上だけではない!ということなんでしょうか…

しかしそんな盤外戦術が効かなかった方が二名おり、それが

我らが羽生善治先生と中原誠先生。

羽生善治先生との対局では大山康晴先生が優勢な局面で、ここから得意の盤外戦術で

ジワジワと精神的に追い詰めていくところを、羽生善治先生は潔くスパッと投了。

これからお楽しみが待っていたと思っていた大山康晴先生、想定外の投了に

おもちゃを取り上げられた子供のように怒ってしまい感想戦が行われなかったそうです…

そして中原誠先生。

大山先生とゴルフに行かれ、汗をかいた為お風呂に入るのかと思いきや

そのまま宴会をやろうと提案した大山先生。

大山先生に対し誰も逆らえない当時の風潮に対し

「そんな手はありませんよ。」

と言い放ち、一人風呂に向かう中原先生。

それを見て複数人も風呂へと向かい、大山康晴先生の盤外戦術はここでも通用しませんでした…

ダン

通算162局で中原先生の107勝55敗、タイトル戦に至っては20局で中原先生の16勝4敗。大山先生が逆にカモられてましたね。

プロ野球で囁き戦術を使った故・野村克也氏も、王貞治氏には通じて長嶋茂雄氏には通じないと仰せでした。

動じないメンタルってやはりあるんですかね。

大山康晴 著書の紹介

大山康晴先生に関する本の中でオススメを紹介です。

大山康晴名曲集


大山康晴名局集

大山康晴先生の名局のうち、182局を収録した逸品です。

ダン

令和の藤井システムはここから生まれる可能性があるかも!?

大山、中原激闘123番 全対局譜


大山、中原激闘123番 全対局譜大山康晴中原誠

大山康晴先生と中原先生の全局を集めた貴重な一冊です。(当時)

通算対局では中原先生に随分と負け越していますが、それでも1局1局が貴重な棋譜となっています。

大山康晴全集 全3冊


大山康晴全集 全3冊 レア

大山康晴先生の全局が収められた非常に歴史的価値のある逸品です。

まとめ

最後までご覧頂きありがとうございました。

今回の記事でお伝えしたかったこと

昭和の大名人にして今なお歴代最強の呼び声も高い棋士、それが大山康晴先生

勝つためには手段を選ばない、盤外戦術も駆使し圧倒的な実績を築き上げた

将棋連盟会長に弟子の育成等、将棋界に残したものは計り知れない

今は既に鬼籍に入られてしまいましたが、

これから大山康晴先生の記録をどんどん塗り替えていくような棋士が現れること

それでも高い壁となって亡くなってからも将棋界そのものの発展に寄与してくれることを

願っています。

ダン

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