升田幸三 GHQに嘘 升田幸三賞に陣屋事件など
升田幸三先生のこれまでの功績
升田幸三先生のエピソード
現代にも通ずる、升田幸三先生の名言や考え
升田幸三先生と言えば、将棋界では羽生善治先生や藤井聡太先生以上に影響力がある一面もある
偉大な棋士の先生です。
既に鬼籍に入られていらっしゃる為、過去のエピソードや逸話、功績等を中心にご紹介します。
それでは今回もどうぞ最後までごゆっくりとお読みくださいね。
升田幸三がGHQについた嘘とは?
GHQに嘘。その理由は…
升田幸三先生の功績として、実は一番大きなものではないかと思っているのが
このGHQについた嘘に関する話でしょう。
インターネット上では
升田幸三先生がGHQを論破した!
升田幸三先生がいなかったら今の将棋はなかった!
という意見?もチラホラと散見されますが、調べてみるとどうも少し事実と違うようでしたので
ここでは事実ベースで要点だけかいつまんだお話を書きたいと思います。
まず結論から言うと、
と言うところが挙げられます。
当時の升田幸三先生は朝日新聞社の嘱託棋士だった
と言うのも当時の升田幸三先生は朝日新聞社の嘱託棋士であり、
そもそもGHQに対して何かを交渉出来るような力はありません。
その為、将棋連盟の会長(当時でいえば故・木村義雄先生)のような方とは違い
純粋に日本人が将棋という文化をどう考えているのか、興味本位で聞いて見たくて
朝日新聞の嘱託棋士である升田幸三先生を読んだのではないかと考察します。
このあたりの内容については、将棋ライターである松本博文さんの記事にも記載されているから是非読んでみて欲しいです。
恐らくこの件については一番説得力のある内容だと思います。
記録として残っていない為、話半分程度で聞く必要はある
後述しますが、升田幸三先生は多少口八丁な側面があり
リップサービスで本件に関することを語っていた可能性を否定出来ません。
ただし、GHQ側から見た将棋に対する「野蛮な文化だ」という一種の偏見のようなものに対し
毅然とチェスの方が野蛮である、という趣旨で言い返し、将棋との違いを端的に語られたエピソードについては
棋士としての本懐を見事に表現してくれた、という他ありません。
そういう意味で日本人の持つ精神性、というよりも将棋そのものの精神性を語ってくれたんですよね。素晴らしいことだと思います。
升田幸三賞と升田幸三
新手一生の精神
将棋界には、毎年一定の功績を残した棋士を表彰する制度があります。
プロ野球やサッカーで言う優秀選手賞、MVPのようなものが代表的ですが
それとは別に、ちょっと変わった賞があります。
それがこの升田幸三賞。
ご存じ優秀棋士やMVPのような賞は藤井聡太先生、羽生善治先生のような
将棋の強い先生が受賞する賞なのですが、この升田幸三賞は少し毛色が違います。
受賞する為の要件としては
今までになかった妙手、好手を指した者
定跡を作り、将棋界の進歩・発展に貢献した者
となっております。
面白いのが、プロ棋士だけでなくてアマチュア棋士の方も受賞出来ることなんだ。将棋ソフトのelmo、アマチュアで使い手がいる嬉野流の創始者(アマ強豪)も受賞しているんだよ。
升田幸三先生の座右の銘である
を体現した賞であると言えますね。
賞で個人の名前が入っているのは現在升田幸三先生のみ
現在将棋会の賞の中で、賞に個人名が入っているのは升田幸三先生ただ一人のみ。
将棋の勝ち負け、実力だけでなく将棋というゲームそのものの奥深さや、学問としての価値がある手には
相応の栄誉を与える、という所に将棋の奥深さを感じますね。
升田幸三と陣屋事件
升田幸三と陣屋事件
升田幸三先生には実に多くのエピソードがありますが
その中で有名なものと言えばやはり陣屋事件でしょう。
先日の王座戦でも使用され、永瀬拓矢先生が藤井聡太先生を破ったのは有名ですが
そんな将棋会とゆかりのある旅館・陣屋での事件について紹介します。
時は1951年。
もともと名人戦とは別のタイトル戦を、と言う毎日新聞の考えで王将戦が設立されました。
(それまで名人戦は毎日新聞主催でしたが、連盟との契約とのもつれから朝日新聞が名人戦主催に変更となっていた)
現在は廃止されていますが、当時は手合い割(ハンデ戦)を採用しており
先に4勝したとしても、ハンデ戦をもってしっかり7局まで行うのがルールとなっていました。
プロ棋士でありながらハンデ戦を行うルールを、
と看破した升田幸三先生、実際に王将位であった木村義雄先生を4勝1敗で差し込み、王将位の奪取に成功します。
そこからはルールに則り、第六局は香を落とす手合い割で時の名人であった木村先生との対局が控えていました。
陣屋事件の真相
第六局は、神奈川県にある旅館・陣屋での対局となりました。
鶴巻温泉駅から徒歩ですぐとのことで、毎日新聞社からの同行はなく
一人で陣屋についた升田幸三先生。
しかし旅館に着き、呼び鈴を押しても迎えに誰も出て来ず
騒がしい様子から、宴会をやっていることはわかるものの女中さん、番頭さん含め
誰も升田幸三先生をもてなそうとしません。
業を煮やした升田幸三先生は、陣屋を出て近くの旅館にある光鶴園に移動し
出された酒を愉しみながら、光鶴園で一泊し
翌日陣屋に移動すればよいと考え、陣屋に電話をかけて毎日新聞記者が出た所から物語はスタートします。
陣屋の不誠実な対応ではなくこれまでの不満が爆発
先輩棋士や毎日新聞の記者がやってきて升田先生をなだめようとしますが一向に事態は収拾せず
当日の朝になって、連盟の理事がやってきて説得しようとしても結果は不発に。
旅館を変えてくれないなら絶対に指さない
対局場を変えてくれれば指す。陣屋でというなら一日伸ばしてほしい
とのやり取りがあり、結果第六局目は中止となりました。
ここまで担ってしまった要因で大きいのは、実は陣屋ではなくて毎日新聞社の升田幸三先生に対する冷遇なんだ。今回の出迎えなしだけでなく、戦争で出兵し身体のよくない升田幸三先生に、高野山の決戦を強いる等のこれまでの対応が爆発した結果、とも言われているよ。
1年間の対局禁止と王将位はく奪処分が下るも…
結果として、本件を重く見た将棋連盟は理事会で
1年間の対局禁止
奪取したハズの王将位のはく奪処分
との処分を升田幸三先生に課すことを決定します。
しかしこの処分に関しては棋士総会を経ず、理事会の独断で行ったことによるものや
賛成・反対双方の立場から言論人を巻き込む騒動なども重なり
最終的には時の名人である木村義雄先生に処分を一任する事態に。
結果、理事会への処分・理事の辞表・そして升田幸三先生への処分全て取り消しという判断により
升田幸三先生は処分を免れたのでした。
陣屋との和解・名人に香を引いて…
処分を免れた升田幸三先生ですが、不戦敗となった手合い割の第六局を経て、その後第七局を平手で指し5勝2敗で終了。
勝敗が決した後、陣屋に友人らと出向き和解をしたとのことです。
その時に依頼され、読んだ句である
強がりが 雪に轉んで 廻り見る
は現在も陣屋の玄関に飾られているようで、升田幸三先生をおもてなし出来なかった反省を活かし
現在も客人の送迎の際には、陣太鼓の音も鳴らし一緒に客人を送迎してくれるそうです。
いざこざがあっても最後はちゃんと和解し、現在の将棋連盟、棋士の方々とも良好な関係を築いているのは素直に素晴らしいことですね。
その後翌1952年に、弟弟子でもある大山康晴先生に王将位を奪われ、53年に挑戦者として挑むも退けられます。
54年は升田幸三先生の体調不良で見送りとなりますが、
迎えた1955年の王将戦で、名人であった弟弟子の大山康晴先生を4連勝で差し込むと
第五局には当時出来なかった手合い割にて名人と対局。
文字通り名人に香車を引き、そして勝利することに成功したのでした。
公式戦で名人に香車を引いて勝ったのは後にも先にも升田幸三先生だけだよ。でも、第五局勝利後の六局、七局は体調不良で棄権してるんだ。
「弟弟子でもある名人の大山君にこれ以上屈辱を強いられない」と告げて。優しい兄弟子だったんですね。
升田幸三のエピソード・名言・生い立ち・戦績など
タイトル挑戦23回、タイトル期数7期
升田先生の生涯タイトル挑戦は23回、うち獲得期数が7期となっています。
木村義雄名人や、弟弟子の大山康晴先生等
強豪ひしめく中で、かつタイトル戦も現在と比べると少なかったこともあり
通算タイトル期数は物足りない印象を受けますが
太平洋戦争で兵隊として戦地に赴き、決して万全とは言えない体調の中で
これだけの成績を残したことはやはり素晴らしいの一言ですね。
また一般棋戦でもNHK杯3回などを含め合計6回の優勝を誇り、A級在籍記録は31期となっています。
今の将棋名鑑等を見ても、対局したい棋士の名前で非常に多く名前の出る先生で、羽生善治先生も升田幸三先生の名前を挙げているんだ。それだけ魅力ある先生と言うことなんだろうね。
升田幸三 棋風
升田幸三先生の棋風は独創的で、既成の手に囚われることなく様々な定跡を創り出しました。
升田流石田式
雀刺し
急戦矢倉
棒銀
ひねり飛車
角換わり腰掛銀
など、現代でも定跡化されたものが多くありますね。
加藤一二三先生の棒銀もこれらを参考にして作り上げられていったのでしょう。
その中でも特筆すべきは角の使い方に秀でていたことで
歴代の有名棋士に共通しているのは、桂馬や角等前に進めない特殊な駒の使い方が優れていることが挙げられますが
升田幸三先生も例に漏れず、特殊な駒の使い方が大きな特徴となっていました。
遠見の角を好んでいたようだよ。スナイパーのようにじっと戦況を見つめ、機を見て動く…
生い立ち
升田幸三先生は1918年に現在の広島県三次市で四男として誕生します。
1932年、お母さまの物差しの裏に
と書き残し家出をします。
(実際は勝つため…の誤字と言われているようです)
そのまま15歳でプロ棋士(当時は初段でプロとなり、現行の4段とは異なる)となり
1939~1945年までは陸軍として入隊し
実際に1944年からは戦地にも赴いています。
戦争が終わり、棋士として復帰してからのご活躍は紹介の通り。
ちなみに弟弟子である大山康晴先生とは腐れ縁のようなものがあり
大山先生が将棋連盟の会長を務められていた際には
わざわざ連盟に電話をかけて苦情を言う等なかなか面白い面があったようです。
晩年は体調を崩し、休場がちになりますが
羽生善治先生や先崎学先生等、当時の若手棋士の方々と囲碁を楽しまれることもあったようです。
1991年、73歳にて逝去。
弟子はあの桐谷さん
升田幸三先生のお弟子についてですが
なんとあの桐谷広人さんがいます。
株主優待の桐谷さん…の方が有名だよね?桐谷さん実はプロ棋士だったんだよ。何というかあの独特な感性はやはり師匠譲りなんでしょうか…
とはいえ、実際に従事していたのは升田幸三先生ではなく
米長邦雄先生だったようで、公私にわたってお世話になっていたようです。
とはいえ桐谷さんも米長先生とは婚約者をめぐってトラブルになるなど晩期はあまり良好な関係とは言い難かったよう…
師匠同様、浮き沈みの激しい人生と言えそうですね。
升田幸三 著書
升田幸三先生に関する本を紹介します。
名人に香車を引いた男
名人に香車を引いた男―升田幸三自伝 (中公文庫)
升田幸三先生の自伝です。
名人に香車を引いた、このフレーズだけでどこの誰かが一発でわかってしまうような文面ですね(笑)
GHQに関することもこちらの本を参考に書かせて頂きました。
升田幸三名局数
升田幸三名局集
升田幸三先生の名局を集めた一冊です。
どの棋譜にも独創的な手が必ず1手はあると思わざるを得ない程素晴らしい棋譜が詰まっています。
大山VS升田全局集
大山VS升田全局集
弟弟子でもある大山先生との因縁の対局を集めた一冊です。
兄弟弟子だからこそわかりあえること、それが盤面で表現されていると考えるだけでも
趣深い一冊ですね。
まとめ
本日も最後までお読み頂きありがとうございました。
升田幸三先生が将棋界に残した功績は極めて大きい
現在にも繋がる考案した定跡、今後誰が継ぎ発展させるか見ものである
誤解されやすい言動が多いが根は優しく芯が通っているのが升田幸三先生
升田幸三先生が紡ぎだした定跡が発展し、更に奥深い将棋が随所で見られるようになることを願っています。
ダン