杉本昌隆 藤井聡太他一門から多数の棋士を輩出する名伯楽
杉本昌隆先生の歩みについて
杉本昌隆先生と弟子の藤井聡太先生とのエピソード
杉本昌隆門下の弟子・棋士について
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遂にこの時が来てしまいました。
藤井聡太先生が何か記録を達成し、または更新する度に
擦られるように紹介される師匠、杉本昌隆先生。
世の中の人は、完全に杉本昌隆先生のことを
藤井聡太先生を育て上げ、世に輩出した偉大な師匠
と言う目で見ていることでしょう。
勿論そうなんです。疑いの余地は一切ありません。
しかし、杉本昌隆先生の顔は藤井聡太を育てた師匠だけにとどまらず
今なお現役の棋士としての顔や、才能ある弟子を育てる教育者としての顔など
様々な顔も持ち合わせている為、藤井聡太の師匠とワンイシューで終わってしまうのは
あまりに杉本昌隆先生を安く使いすぎてないか…?
という思いもあり、今回は杉本昌隆先生のことをもう少し多面的にご紹介出来ればと思います。
どうぞ今回も最後までごゆっくりとお読みくださいませ。
杉本昌隆 藤井聡太との出会い 指導方法など
八冠 藤井聡太に出会い師匠となるまで
杉本昌隆先生が初めて藤井聡太先生に出会ったのは小学校1年生の頃で
藤井聡太先生が奨励会に入る前、東海研修会に所属しており
その幹事を杉本昌隆先生が行っていた時でした。
東海研修会では師匠を必要としない為、研修生と幹事という関係でしたが
そこから上の奨励会、そしてプロを目指していく為には師匠になってもらう人を見つける必要があったのです。
その頃から藤井聡太先生の類まれなる才能に気づいていた杉本昌隆先生。
藤井聡太先生の近くで成長を見守りたいな、という思いと共に
如何にして自分の師匠になって貰うかを考え、鏡の前で口説き文句の練習をします。
東海研修会の幹事だから当然に師匠、と言う訳ではないですからね。
「藤井君、プロを目指すならうちの一門に来ない?おやつ食べ放題だよ」
「黙って俺についてこい」
「藤井君師匠は決めたかな?わからないことはいつでも相談に乗るよ」
など何パターンか練習し、小学四年生になり奨励会入りを目指す藤井聡太先生を相手に
弟子入りに持ち込むため?の事前研究をします。
結果、藤井聡太先生のお母さまと藤井聡太先生が程なくして弟子入りのご挨拶に来られた為
事前研究が無駄になりました事なきを得ました。
another story? 別の人が師匠だった世界線
藤井聡太先生の師匠は杉本昌隆先生で間違いがないのですが
実は藤井聡太先生が8歳くらいの頃、違う人が師匠になっている可能性
つまり別のルートが分岐として存在していました。
その別の師匠とは…藤井聡太先生のかつての天敵、豊島将之先生です。
既に藤井聡太先生の強さと将来性を知っていた東海研修会の幹事だった杉本昌隆先生。
面識のあった、当時20代そこそこの豊島将之先生に
と驚きの提案をぶつけます。
豊島将之先生は流石に驚き
「僕は若すぎです。杉本さんが師匠になられるべきです。」
と固辞された為、結果的に師匠豊島将之は実現しませんでしたが
師匠が豊島将之先生だったら、藤井聡太先生にどんな世界戦があったのか、それはそれで
興味がありますね。
ただし、強い棋士が師匠だったらもっと凄い結果になったとは言い切れないのも面白い所で、個人的には藤井聡太先生の師匠は杉本昌隆先生で最適解だったと今でも思います。
藤井聡太を弟子に迎えて
結果的に藤井聡太先生を弟子に迎え、そこから長きに渡る師弟関係が始まるのですが
一番最初に藤井聡太先生に指導した内容は、有名なクリームソーダの飲み方でした。
先述した、師匠へのお願いを藤井聡太さんとお母様でさらに来た際の場所が
今や全国的な知名度を誇るコメダ珈琲でした。
自分でちゃんと言いなさい、とお母さまに促され
奨励会試験を受験したいので弟子にしてください
と藤井聡太先生の挨拶を以て師弟関係が始まりました。
そこから藤井聡太先生がクリームソーダを注文されるのですが、
アイスをそのままソーダに沈めようとして、こぼれそうになります。
そこで注意しようとするお母さまを制し、「もう私が師匠ですので」と制して一体なんの師匠やねん
と だから一体なんの指導やねん 指導する所からスタートしたのでした。
数少ない師匠から藤井聡太先生に対する指導エピソードでした。
将棋も弟子の方が圧倒的に強いもんね
ただし、杉本昌隆先生の指導はビジネスでも非常に通ずる所があり
指導の本質を極めて的確に突いているなあということを思います。
以下指導についての指針をまとめました。
将棋以外の所は大人としてしっかり指導する
弟子の指し方に余計な口を出さない
弟子の才能を信じてあげる
弟子の意見を尊重し、しっかりと聞く
日常的に弟子と交流をはかる
強い人を紹介する
例えば、岡崎の将棋まつりで藤井聡太先生が
大盤に向かう際、対局中の佐藤天彦先生、郷田真隆先生の前を横切ってしまい
「なるべく人の後ろを通るようにね」
と言えるのは師匠しかないでしょう。
そこで「自分の方が将棋が弱いから」なんて思ったら絶対にこの注意は出来ません。
そのような将棋以外での指導が的確にあったからこそ
藤井聡太先生は棋力だけでなく、振る舞いでも多くの方を魅了する存在になったのだと思います。
現在は地球代表・深浦康市一門と定期的に交流を図り、対局を通じて棋力の向上に努めているようですね。
藤井聡太先生への具体的な指導
上記の指導の掟みたいなものを垣間見る杉本昌隆流指導法でしたが、
実際には将棋の指導のようなものはほとんど行わず、杉本昌隆先生のツテを使って
強豪棋士をどんどん藤井聡太先生に紹介し、そこの研究会に入れて貰って指導して貰うなど
どちらかというと弟子の成長に合わせて裏方に徹するような接し方をしている様子が伺えます。
藤井聡太先生の研究相手が永瀬拓矢先生なのは有名な話だけど、永瀬拓矢先生が名古屋に来られて一緒に研究されている際も殆ど口出しをせず、お弁当買いに行ったりとかしているくらいですから…
また、過去のインタビューでも藤井聡太先生に対しては
技術の指導をする必要は全くない
これからも今までどおりの将棋を指すように
と答えられているように、必要以上に介入せず自主性を重んじているように思います。
師匠である杉本昌隆先生が今まで通りと言っても、藤井聡太先生は自身できっとあれこれ考え
必要なものを勝手に取り入れて伸びていくことがわかっているからこその発言でしょう。
藤井聡太先生以外の弟子にも基本的な接し方は一緒
藤井聡太先生だからこそこのアプローチなのでは?と考えられた方もいるかもしれませんが
杉本昌隆先生は、それ以外の弟子の先生にも基本的にはこのようなアプローチを採用しているようです。
杉本昌隆一門には掟みたいなものがあり
18歳までに初段、20歳までに三段(奨励会)
将棋と学業の両立
月謝を取らない
ということを掲げています。
勿論年齢を越えたからと言って即破門みたいなものはないですが
将棋と学業の両立については、藤井聡太先生は勿論
その他の門下生を見てもそれがきちんと染みついていることがわかりますし
月謝についても、先述した通り過度に教えすぎない所から通じており
という杉本昌隆先生の価値観を如実に表現しているものと考えられます。
だからこそ藤井聡太先生だけでなく、他の弟子の方も将棋、将棋以外での活躍が出来るのでしょうね。
杉本昌隆 生い立ち プロとしての実績
ここからは藤井聡太の師匠杉本昌隆ではなく、プロ棋士杉本昌隆先生としての紹介です。
杉本昌隆先生の生い立ち プロになるまで
杉本昌隆先生は、1968年に愛知県の名古屋市で誕生します。
将棋を覚えられたのは小学校2年生の頃で、お父様の手ほどきを受けて学ばれたそうですが
将棋以外にもオセロや五目並べ、トランプなど様々なボードゲーム等と並行して遊んだものの一つに将棋が含まれていたようです。
また将棋以外にもウルトラマンが好きだったようで、現在も実家には何十体もの塩ビフィギュアが置いてあるとのこと。
ご両親は優しくて、やりたいことを比較的自由にやらせてくれたようですよ。そういう経験が藤井聡太先生をはじめとする弟子の方への指導にも通じているのかもしれませんね。
12歳で故・板谷進先生を弟子に奨励会に入会します。
弟子の藤井聡太先生のように飛ぶ鳥を落とす勢いで昇段を重ね…
と紹介したいところですが、現実はそうではなく、入会したての6級から5級に昇級するまでに
2年以上もの月日を要したそうです。
それでも師匠であった板谷進先生は、杉本昌隆先生の可能性を信じて励まし続け、
4人の弟子の中で一番成績がよくなかった杉本昌隆先生に対しても
とエールを送り続けたようです。
もともとは師匠の「若いうちは居飛車で」という言葉通り居飛車党だったようですが
奨励会でなかなか結果が出なかったことなどから振り飛車党に転じます。
そこから成績もついてくるようになり、17歳で初段、18歳で3段に昇段すると
21歳とやや遅めながら三段リーグを15勝3敗の成績で駆け抜け、
念願のプロ入り(四段昇段)を達成したのでした。
ちなみに15勝3敗という成績はかなり優秀な成績で、藤井聡太先生がプロ入りを決めた時の成績は13勝5敗だったんだ。数少ない師匠が自慢出来る所ですね。
杉本昌隆先生の棋風
杉本昌隆先生の振り飛車(主に四間飛車、中飛車)は、奨励会だった当時からも評判が高く
故・村山聖先生は、杉本昌隆先生の振り飛車を
「全振り飛車党の中で一番の本格正当派」
「メチャクチャ格式が高い」
と大絶賛していました。
杉本昌隆先生の後にプロ入りする、振り飛車党大御所の藤井猛先生も
そんな杉本昌隆先生が振り飛車を武器に奨励会で躍動する姿を見て
勇気づけられたと語っています。
この頃のてんてー(藤井猛先生)は居飛車と振り飛車の両方を模索していた頃ですから…ある意味でてんてーを生んだ一人とも言えますね。
ちなみに現在は相手が飛車を振った場合、杉本昌隆先生は飛車を振って相振り飛車にはせず
居飛車の形で指すことが多いようです。
杉本昌隆先生 プロ入り後の実績
杉本昌隆先生は、プロ入り後残念ながら
タイトル挑戦や、一般棋戦での優勝など特筆すべき大きな成果はありませんが
コツコツと勝利数を積み重ね、規定で八段まで勝ち上がっている堅実派の棋士であることは間違いありません。
また、過去には渡辺明先生、森内俊之先生、谷川浩司先生と言った強豪棋士から勝利も挙げています。
最近の有名な所で言えば、まだ藤井聡太先生が豊島将之先生を苦手としていた時に
豊島将之先生相手に端歩の2連続突きで破った一局でしょう。
藤井聡太の偉大な師匠である前に、一人のプロ棋士。
これからも本業の方でのご活躍にも期待ですね。
杉本昌隆 結婚 妻 一門の室田伊緒 齋藤裕也等のエピソード ほか
杉本昌隆先生は結婚しており二児の父
杉本昌隆先生は9歳年下の友美子さんとご結婚されており、二人の子どもを持つ父親でもあります。
杉本昌隆先生と奥様が出会ったのは杉本昌隆先生が35歳頃の時で、
通っているスポーツ施設で出会い、管理栄養士として指導されていた奥様に杉本昌隆先生が一目ぼれしたのがきっかけと言われています。
恋愛については将棋とは違い手筋がわからず、寄せ方もわからなかった杉本昌隆先生。
打開する一手を指したのはなんと奥様でした。
ある日なんとテレビを見ていたら、杉本昌隆先生が真剣に将棋を指している姿が映し出されているではありませんか。
いつもとは違う真剣な眼差しで盤面に向かう杉本昌隆先生のギャップに奥様も好感を持たれたようで
お会いした際に、杉本昌隆先生に対局を頑張るようお伝えしたそうです。
そこで杉本昌隆先生の応手はAI越えの一手
「僕が勝ったら食事に付き合って下さい」
で、提案通り見事対局に勝利(朝日杯の準決勝でした)
朝日杯の決勝では堀口一史座先生に敗れてしまったものの
約束通り食事に行くことになり交際、そして結婚へと至ったのでした。
タイトルではなく最愛の人を獲得した杉本昌隆先生でした。
またご結婚後はお二人の子宝にも恵まれています。
奇遇にも奥様と杉本昌隆先生は11月13日と同じ誕生日でもある為
奥様の誕生日を忘れることがない、というのも良いことですね。
藤井聡太の師匠、プロ棋士、夫、父親。
様々な顔を持っていますが、これからも多方面での杉本昌隆先生のご活躍に期待せざるをえませんね。
藤井聡太以外の弟子 室田伊緒 齋藤裕也など
杉本昌隆一門には藤井聡太という一騎当千の弟子がいますが
実はそれ以外にもお弟子さんがいらっしゃいます。
プロになられた方だけで言うと
がいらっしゃり、室田伊緒先生がこの中では頭一つ抜けて有名なのではないでしょうか。
また、齋藤裕也先生は藤井聡太先生の兄弟子でもあり、様々な苦労がありながら
三段リーグを弟弟子同様一期抜けし、26歳でプロになった遅咲きの先生です。
また、残念ながらプロにはなれなかったものの
公立高校から東京大学に進学し、将棋部の主将を務められた伊藤蓮矢さんはじめ
竹内 貴弘さん
宮田 大暉さん
村田 丞さん
渋江 朔矢さん
等がいらっしゃいます。
竹内さんは杉本昌隆先生の初めての弟子で現在指導棋士。名城大学将棋部のコーチもされ、全国大会優勝に導いた、若くして師匠顔負けの名伯楽だよ。
宮田さん、村田さん、渋江さんは現在奨励会の三段リーグを戦っているよ。
伊藤蓮矢さんは高校1年生で東大に合格すべく奨励会を退会したのですが
退会の際には藤井聡太先生とも指し、お互いに涙を流しながら対局されたようです。
そして東京大学に見事合格された際には、既に将棋での師弟関係はなくなっているにも関わらず
杉本昌隆先生が合格祝いを開いて下さったそうです。
室田伊緒先生もインタビューで温かい一門だと語られていましたが、それはやはり杉本昌隆先生のお人柄によるものなんでしょうね。
兄弟子の齋藤裕也先生と藤井聡太先生が、ABEMAトーナメントで楽しそうにわちゃわちゃしていたのも
同門の絆を感じますよね。
杉本一門の恒例行事新年会でも一緒に鍋などをつついたり、
20歳以下の弟子にはお年玉をあげたりと本当に弟子思いな様子が伺えます。
優秀な弟子を持つが故の悩み!?
すっかり杉本昌隆=藤井聡太を生んだ師匠
のイメージが定着しているのは周知の事実ですが、ファンの方がプレゼントを藤井聡太先生だけではなく
杉本昌隆先生宛てに送られることもあるようで、これが小さな悩みとなっているようです。
形に残るようなものであればいいのですが、記事にもあるように生菓子だったり日持ちしない食品系の場合は
藤井聡太先生のお母さまに連絡し、許可を得てから頂くこともあるようですね。
反面、プレゼントをまとめて発送したりなど日の当たらない裏方的な業務も増えたようです。
でもまぁ弟子のおかげでめちゃくちゃ仕事も増えたしバーターで…と考えるのは野暮ですかね…?
師匠は辛いよ…
そんな空前絶後の実績を次々と作り上げていく弟子を持つ辛さをしっかりネタにし
本にまとめられています。
師匠はつらいよ 藤井聡太のいる日常 (文春e-book)
まあ辛いという気持ちも確かにあるんでしょうが、明らかにこういう状況を楽しんでいらっしゃるのも
杉本昌隆先生なんですよねぇ…
こんな経験が出来る人生って本当に限られた人だけだと思うので
師匠も色々なご経験をされながら楽しんで頂けたら嬉しいですね。
やっちまった 対局時間を間違えて不戦敗
先日の福崎文吾先生の不戦敗は、
将棋界のやっちまったエピソードとしてホットな話題ではありますが
杉本昌隆先生もお若い頃に不戦敗の経験があります。
1999年の銀河戦予選にて青木清先生との対局予定でしたが
午前中の対局にも関わらず、午後からの対局と勘違いされた杉本昌隆先生はホテルで対局の準備をされています。
そこへ職員から電話があり、対局時間を間違えて不戦敗になったことを告げられ、血の気が引いたとのこと。
誰しも一度や二度の失敗はありますが、杉本昌隆先生もそのような失敗を乗り越えて
現在があるのですね。
藤井システムを生み出したのは杉本昌隆先生!?
藤井システムと言えば、藤井猛先生が編み出した将棋界400年の歴史の中でも
燦然と輝く革新的な戦法ですが
実はこの藤井システムの着想を、杉本昌隆先生の格調高い振り飛車からも得ていると
開発者の藤井猛先生は語られています。
藤井聡太先生と比較されちゃうから霞んで見えるんだけど、平成初期の頃の杉本昌隆先生の振り飛車は他の棋士が参考にするほど完成されていたんだよ。
そして藤井猛先生の藤井システム登場により、振り飛車にとってのアイコン的存在は
藤井システムとなってしまいますが
それ以外でもあまり研究の進んでいない相振り飛車や、端歩位取り穴熊などを体系化した実績は
もっと日の目が当たっても良いレベルの功績と言えます。
特にお互いが飛車を振る場合は自由度が高く、力戦調になりがちだったところを
きちんとした定跡にまとめ、学問として研究を進めた功績については
藤井聡太先生を育てたものに決して引けを取らないレベルの功績と言えるでしょう。
本当にポンコツな所もあるけど
藤井聡太先生と比較してどうしてもポンコツキャラになりがちな杉本昌隆先生だけど、研究者としても棋士としても、師匠としても一流ですからね?
マルチさで言えば藤井聡太先生の上を行きますからね?
まとめ
最後までお読み下さりありがとうございました。
藤井聡太八冠誕生は才能・素質を師匠の杉本昌隆先生が見抜き適切に指導したからこそ
藤井聡太の師匠以外にもマルチな才能がある、それが杉本昌隆先生
将棋だけでなくビジネスにも応用出来る指導の本質を伝えてくれる杉本昌隆先生
二言目には藤井聡太の…
という枕詞がついてしまうくらい強烈なインパクトとなってしまっていますが
一人の棋士としても、一人の師匠としても、一人の研究家としても
これから更に活躍される杉本昌隆先生を応援します。
ダン
コメント
コメント一覧 (2件)
[…] 現在藤井聡太竜王名人の師匠でも有名な杉本昌隆先生も同様です。 […]
[…] と師匠の杉本昌隆監督に一撃を加えたのを手始めに今回も普段では見ることの出来ない? […]