村山聖は藤井聡太に生まれ変わった?羽生善治のライバルは聖の青春のモデル

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村山聖は藤井聡太に生まれ変わった?羽生善治のライバルは聖の青春のモデル

今回の記事でお伝えしたいこと

故・村山聖先生の半生について

故・村山聖先生と羽生善治先生・藤井聡太先生にまつわる話

故・村山聖先生のエピソード

 

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藤井聡太八冠誕生で沸き立つ昨今ですが、藤井聡太先生を見て古くからの将棋ファンの先生の中に

こう思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

藤井聡太は村山聖の生まれ変わりではないのか

と。

かつて最強の名を欲しいままにした、羽生善治先生と互角の勝負を繰り広げ

病にその身体を蝕まれながら、真摯に将棋に打ち込んだ伝説の棋士の一人です。

村山聖は藤井聡太の生まれ変わりに値する人間なのか。

記事の中で、故・村山聖先生の歩まれた生涯を紹介したいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりとお読みくださいませ。

目次

村山聖は藤井聡太に生まれ変わった?

村山聖が藤井聡太の生まれ変わったと言われる所以

結論からいうと、輪廻転生については宗教観によって否定も肯定も出来る為、

ここでの深入りは控えますが

村山聖先生が藤井聡太先生に生まれ変わったという根拠はありません。

しかし、生前の村山聖先生の棋風や人間性が現在の藤井聡太先生とダブる部分が多く、

村山聖先生を知っている人が、現在の藤井聡太先生を見ると

色々と重なって見えてしまうのかもしれませんね。

村山聖の師匠森信雄はこう見た

特に村山聖先生の師匠であった森信雄先生はその共通点をこう紹介しています。

優しいオーラを持っており、人に好かれる

決して逃げず、後ろ向きにならない

 

二人とも人に好かれるオーラがあり、前向きであること

その他にも将棋を追求しようとする姿勢や、若くして達観したような考え方、将棋は終盤に強いなど

共通点は非常に多くあるようですね。

ダン

ただし、やはり将棋の対局となると藤井聡太先生が勝つのではないかと見ているようだよ。お互いに終盤が強いのはともかくとして、

藤井聡太先生はその先の中盤からスイッチが入り、押し込んでいくことから村山聖先生でも分が悪いとみているようですね。

しかしその歴代最強の呼び声も高い藤井聡太先生に対して

村山聖の生まれ変わりではないかと言うことに対する違和感がないくらい、

当時の村山聖先生が凄かったことは言うまでもなさそうですね。

藤井聡太の師匠 杉本昌隆を高く評価していたのは…

また、更にロマンチックなエピソードは続きます。

藤井聡太先生の師匠、杉本昌隆先生は現在も振り飛車を主戦として戦う実力派棋士の一人ですが

その杉本昌隆先生がまだ奨励会だった頃に指していた振り飛車を、非常に高く評価していたのが村山聖先生なのです。

ちなみにそれがどれくらい凄いかと言うと、まず滅多なことで他人の将棋を褒めないのが村山聖先生でした。

その村山聖先生をして、杉本昌隆先生の振り飛車だけは一目を置いていたようで

全振り飛車党の中で一番の本格正当派

メチャクチャ格調が高い

 

とベタ褒めをしていたんですよね。

そして、そんなベタ褒めをした棋士の弟子が藤井聡太先生。

かつてべた褒めした振り飛車党の棋士を見つけ、生まれ変わって弟子入りする。

 

生まれ変わりについては、やりすぎるとオカルトの世界に入り込んでしまうのですが

そういう観点で考えると非常にロマンがありますし、

知らず知らずに藤井聡太先生と村山聖先生が様々な部分で重なっていくのを感じますね。

あたかも本当に生まれ変わりかのような錯覚を起こしてしまいます。

当面続く可能性が極めて高い藤井聡太一強時代ですが、この現状を天国から村山聖先生はどんな思いで眺めているのでしょうか。

将棋は盤上、盤外どちらも本当に様々なストーリーがありますね。

村山聖 羽生善治のライバル 生い立ち~プロ入り後の実績

村山聖 生い立ち~奨励会入会まで

村山聖先生は1969年に広島県の府中町で生まれました。

幼少期に腎ネフローゼという難病を患い、これが生涯村山聖先生を苦しめ続けることとなります。

 

村山聖先生が将棋と出会ったのはそんな難病で病院に入院している時でした。

入院している時にやることがなく、お父様から将棋の手ほどきを受けたのが最初です。

そこから村山聖先生は、病気によくないからという忠告にも耳を貸さず

毎日夜遅くまで将棋に打ち込み、お母様から将棋に関する本等を持ってきてもらいました。

持病により病院内の院内学級だった村山聖先生は、10歳の時に

月3回の外出許可を利用し、広島市内の元奨励会員が開く将棋教室に通い、実力をつけていきます。

中国こども名人戦、小学生将棋名人戦、中学生将棋名人戦等で好成績を残し

中学1年生の頃から漠然と将来の夢を「名人」と定め、プロ棋士になることを目指します。

11歳の時から、後に糸谷哲郎先生や山崎隆之先生も通われる広島将棋センターに通い

席主の本多冨治さんに才能を認められており、

以前通っていた将棋教室の元奨励会員はまだ師匠を紹介するのは早いと保留にされていたことから

本多さんから師匠の森信雄先生を紹介され、森信雄先生の紹介にて奨励会を受験するよう進めます。

しかし何と、元奨励会員の方も一方で師匠をひそかに探しており

裏で灘蓮照先生に紹介し、灘蓮照先生も村山聖先生を弟子として申請をしていたのです。

ダン

師匠のダブルブッキングってやつですね…

結果、師匠のダブルブッキングにより最初の奨励会試験は灘蓮照先生の反対により受験できず。

森信雄先生の師匠であった南口繁一先生の仲裁により翌年受験し、奨励会5級にて入会したのでした。

棋士の中で唯一受け入れられない 灘蓮照

ここからはダンの個人的な感想になってしまいますが

ここの下りを「聖の青春」で読んでから、将棋の棋士の先生を基本はリスペクトしていたものの

例外として灘蓮照だけは既に鬼籍に入っているとはいえ、人間的に許せない存在となりました。

未来ある棋士、それも持病がありいつ寿命が尽きるともわからない人間から

1年間という貴重な時間を奪うということがどういうことなのかを理解していない。

日蓮宗の僧侶として得度していたということですが、インタビューでは

人の話も聞かずに仏の道を延々と語っていたそうです。

そのような下等な人間がこのような問題になったら、他人のことなど何処知らずで

自利の為にへそを曲げるのはさもありなん、と言うところでしょう。

ダン

そもそも仏道ってそんな好戦的な教えだっけ?半端な学びしか会得してない生臭坊主が聞いて呆れる、という話です。

 

改めて村山聖先生の師匠は森信雄先生で良かったと思う次第です。

奨励会入会~プロになるまで

奨励会入会を機生まれ育った広島県を離れ、関西将棋会館の近くにアパートを借りて

中学生ながら一人暮らしを始めます。

師匠である森信雄先生と一緒に、毎日のように更科食堂(現在は閉店)へ通い

焼き魚の定食を美しい所作で夕食として召し上がり

 

持病による定期的な体調不良を、森信雄先生の看病で乗り越え

時にはあまりに体調が悪化し、例会欠席という形もありながら

可能な限り将棋会館に通いつめ、将棋を学び続けた結果

入会から2年11か月という驚異的な速度で四段昇段(プロ入り)となったのでした。

ダン

奨励会時代のエピソードが多くてここでは簡易的に紹介しました。詳細は後述致します。

プロ入り後の成績

村山聖先生はプロ入り後、

タイトル戦に1度(王将戦、谷川浩司先生 0-4で敗北)の出場

一般棋戦で2回の優勝(若獅子戦、早指し将棋選手権)

竜王戦1組4期

順位戦A級3期

などの実績を残されました。

ライバル羽生善治との激闘

東の羽生、西の村山

と形容される程その実力を認められた二人ですが、

二人の対決は村山聖先生から見て6勝7敗(1不戦敗を含まず)

となっており、当時七冠を達成した絶対的な王者とほぼ互角の星取となっており

ここでも村山聖先生との実力がうかがい知れますね。

ダン

ちなみに村山聖先生は、棋士の方には露骨に敵意を向け闘志をあらわにすることもあったみたいだけど、羽生善治先生にはそんなことをせずフランクに接していたみたいですね。

大阪に羽生善治先生が来られた際には、行きつけの更科食堂に一緒に食事に出かけられたのだとか。

ライバルでありながら仲の良さが伺えますね。

羽生善治先生も命日に村山聖先生を想うつぶやきをされています。

村山聖という偉大な棋士を風化させないよう、命日を含めこのように呟いて下さる羽生善治先生。

会長という多忙なお立場ながら、村山聖先生のことをいつも心に留めておいて下さることがわかるだけでも

将棋ファンとしては胸がいっぱいになりますね。

村山聖の棋風

村山聖先生の棋風ですが、居飛車、振り飛車どちらも来いのオールラウンダータイプでした。

居飛車の際は矢倉、角交換、横歩取りに相掛かり

振り飛車の際は中飛車、四間、三間、向かい飛車と

本当にマルチに指していた様子が伺えます。

ただ内訳をみると居飛車、矢倉を選択する頻度が高かったようですね。

 

持病のこともある為、基本的には長時間の将棋がどちらかと言うと苦手だったようです。

そして終盤は村山に聞けの格言通り、詰将棋で鍛えた終盤力を武器に

中盤までの形勢不利も、難解な局面を作り出しては逆転で勝つという展開が幾度となくあり

そのあたりは現在の藤井聡太先生と通ずる所がありますね。

村山聖 聖の青春 森信雄とのエピソードなど

聖の青春で見えた師匠森信雄との深い絆

藤井聡太先生と杉本昌隆さんの師弟エピソードも大変素晴らしいのですが、

聖の青春で描かれた、村山聖先生と森信雄先生とのエピソードもまた大変素晴らしいものばかりでした。

お互いがお互いのことを大好きで仕方ない、そんな愛情あふれるものばかりで

将棋界の師弟関係は、本来そこまで濃厚なものではなくなってきているものの

村山聖先生と森信雄先生にはそれが当てはまらないものばかりでした。

持病により頻繁に体調を崩しやすい村山聖先生を看病し続けた話。

ゴルフをやりたいと言う村山聖先生に、アカン!と足を蹴っ飛ばして止めた話。

体調悪化によりタイトル戦を不戦敗にしようとした村山聖先生に激怒した話。

体調が悪く動けない村山聖先生の代わりに書店をかけずり回って少女漫画を買ってきた話。

久々に会った村山聖先生に「飯食うとるか、歯磨いとるか」と質問攻めにしたかと思えば、優しく手をさすってあげた話。

 

個人的に一番のハイライトは、村山聖先生が二十歳になった時に師匠の森信雄先生のところに行った時の会話でしょう。

先生、あの、お陰様で20歳になりました。

と、麻雀に興じている師匠の所に出向き、短く報告すると嬉しそうに報告して帰っていく。

自身の持病が重く、幼少期同じ病院で入院していた同世代の子が、気づいたらいなくなっていくことの意味を

理解していた村山聖先生は、自身が20歳まで生きられたことが嬉しかったのではないかと回想する森信雄先生。

たったそれだけを報告したいがために師匠の所に出向く。深い信頼関係を感じますね。

頑固さも優しさも全て純粋ゆえ

聖の青春の中で、村山聖先生が非常に頑固な性格であることが描かれています。

「いやじゃ」

と言ったらもう誰が何を言ってもダメ。

それくらい頑固で、真っすぐな性格なのですが

反面将棋盤を離れると「怪童丸」と呼ばれて同世代~上の棋士から可愛がられたり

後輩、奨励会の子達から慕われていた話も描かれています。

そのどちらも村山聖先生という一人の人間を描いたものなのですが

どちらも「純粋」というところから飛び出した顔であることは間違いなさそうです。

将棋に対し真っすぐで、負けることが大嫌いだからライバルには闘志を燃やす。

自らの持病・若い頃の境遇があるから人には優しく。

 

作中で描かれていた、先輩奨励会員が退会することになり、お別れの酒席で発した

加藤さんは負け犬ですよ

という発言は村山聖先生の純粋さが端的に現れた一言でしょう。

言葉尻だけを捉えるととても酷い言葉ですが、誰よりも加藤さんのことが好きで、一緒にプロ棋士になりたかった。

そんな思いを、ストレートにぶつけた村山聖先生はやはり純粋だったのだと思います。

村山聖先生の優しさが見えるエピソード

村山聖先生の優しさが見えるエピソードは沢山ありますが、

有名な所で言うと髪を切らない、爪を切らないことなどが挙げられるでしょう。

ネフローゼという病気の症状として浮腫みがあり、顔は真ん丸。その風貌にボサボサの髪、そして異様に伸びた爪。

ここだけ見てしまうと、清潔感のない人のように見えてしまいますが

村山先生はこう考えていました。

髪の毛にも爪にも命が宿っている。切ってしまっては可哀想。

自身の境遇から生命に対する儚さと、尊さを理解し、我々では理解の及ばない所で達観されていたのでしょう。

また、将棋を勝ったことで得られる対局料については無関心だったようで

散らかり放題の部屋の中に、封筒に入ったままの対局料が幾つも無造作に放置されていたようです。

1995年、阪神大震災が起きた時には多額の寄付を申し出て、

ライバルでもあった羽生善治先生と共に多くのお金を恵まれない人の為に寄付します。

 

それだけでなく、普段から恵まれない人達の為に多額のお金を寄付されていた両名。

自らがネフローゼというハンディキャップを背負っていたからこそ、恵まれない人に対して誰よりも優しくなれたのでしょう。

病を抱え、死ぬまで将棋に向き合う

長く生きられないことを何となく悟っていたのではないかと考えさせられる村山聖先生。

突然体調が悪くなると、40度を超えるような高熱が何日も続きます。

そんな時は水道の蛇口をわずかに捻り、蛇口から垂れる一滴一滴の雫の音に耳を澄ませながら

今自分自身が生きていることを無造作に敷かれた布団の中、おぼろげな意識で捉えるのでした。

そしてそんな中でも、体調が良い時を見つけては将棋に打ち込み

対局の日は、文字通り自宅の前田アパートから這ってでも行く…

歩けない程衰弱した際は、同じアパートにいた三谷工業の社員さんが機転を利かせ車を出して対局場まで連れて行ってくれたこともあるようです。

自らにはあまり時間が残されていないことを知りながら、目標である名人に向かい腕を上げて行く…

そんな鬼気迫る村山聖先生からしたら、才能に溢れても将棋に向き合う姿勢がまるでダメな奨励会、プロ棋士を見ると

冴えんなぁ

と思われたことでしょう。

村山聖先生は27歳の時に進行性の膀胱がんが見つかり、お医者様から手術を進められますが

子供を作れなくなるのが嫌だから

という理由で一旦手術を拒否します。

お医者様の懸命の説得により腎臓と膀胱を摘出し、再び対局に復帰しますが

翌年癌が再発。1998年から1年間の休場を発表します。

脳に影響が出て、将棋が弱くなると嫌だから

という理由で麻酔を拒否し、治療に専念しなかったことも原因として考えられますが

そのまま1998年の8月、29歳という若さでこの世を去ったのでした。

早く名人になって将棋を辞めたい。女を抱いて、結婚して…

生前は真っすぐに将棋に向き合う村山聖先生でしたが、

実は事がある毎に

名人になって早く将棋を辞めたい

と言うことを周囲には漏らしていたようです。

自分の人生がそれほど長いものではない、ということを知っていたのか

将棋以外の人生を歩んでみたかったのか、今となってはわかりませんが

世間一般の男性のように、女性にも興味があり

頑なに膀胱の摘出を拒否し、子どもが作れなくなることを理由に挙げたのも

世間一般の人が思い描く幸せのようなものを村山聖先生も抱いていたことが伺えます。

ダン

僕には時間がない、という口癖もきっとそういうところから来ていたのでしょうね。

亡くなるまでの話は涙なしでは読めない

村山聖先生が晩年、亡くなるまでを描いたシーンは

将棋ファンでなかったとしても涙なしでは読めない内容になっています。

薄れゆく意識の中で口をついて出てくる将棋の符号。

現世への悔いを抱きながらも、それを口にせず内包する。

人間は悲しみ、苦しむために生まれた。

それが人間の宿命であり、幸せだ。

僕は、死んでも、もう一度人間に生まれたい

22歳の頃に心に宿った死生観。

自らの境遇を全て受け入れ、それでいてなお人間として再び生まれ、生きたいという願望。

今では道徳の教科書にも載る程、多くの人の魅了した村山聖先生。

そして村山聖先生が旅立たれ、葬儀の際に

村山君、村山君と泣き崩れた森信雄先生。

人間的に多くの人から愛される人が出会い、たまたま二人とも将棋の棋士であった

そんな表現がシックリ来るようなお二人の関係性でした。

まとめ

本日も最後までお読み下さりありがとうございました。

聖の青春からの引用も一部ありますが、将棋のことをよく知らない方でも

心を熱くする一冊となっていますので是非手に取ってみて下さい。

(本の方がより史実に忠実となっています。)


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今回の記事でお伝えしたかったこと

人間として大切なものを教えてくれた棋士、村山聖先生と森信雄先生

短い人生ながら常人の倍以上の濃い人生だった村山聖先生

村山聖先生を知るほど、藤井聡太先生が村山聖先生の生まれ変わりに見えてくる

伝説は、伝説に繋がる。

村山聖先生の功績を称え、新たな伝説を作る藤井聡太先生と重ねながら

これからも将棋を見て行こうと思います。

ダン

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